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室町期に農民は自立していた

農民が武器を捨てたのは刀狩から

農民は武士の言いなりで何の抵抗もできず、本当に困ったら、最後の最後で、やけっぱちの一揆。手にしている武器は竹やり、くわ、すき。個人で武士にかなうはずなく、数を恃むしかない。農民については、これまでこんなイメージでこれまで歴史が語られてきました。

けれど歴史研究により、特に室町期の農民について大きく修正されることになりました。農民は刀を持ち、徒党を組み、武士に抵抗。権利意識も強く、自らの利益を守るために実力行使も辞さない。農民の武力を前に、戦国大名も震えあがりました。実際、上杉謙信、織田信長、徳川家康、こういった武将も農民一揆には、ほとほと手を焼いたわけです。

豊臣秀吉が権力を握り最初に実施した政策が、検地と刀狩。世の中が見えていた秀吉。日本を平定した後、次にすべきは土地測量と一揆防止。そのためには農民から武器を取り上げねばならない。刀狩が行われ、農民は武器を奪われました。

平和により農民は無力に

江戸期、国内に目だった戦乱もなく、平和な世が続きました。無力にされた農民は、士農工商に押しこめられ、土地に縛りつけられました。江戸前期、一揆が起きなかったとはいうものの、物理的にできなかったという方が正解でしょう。江戸後期、食い詰めた農民一揆が大規模に発生しましたが、あの一揆こそ、私たちが今まで教えられてきた、惨めな農民の姿。

こう見てくると、室町一揆と江戸一揆は区別する必要がありそうです。室町期、身分は固定されておらず、武器所有も禁止されず、農民には一定の力がありました。大名、武士とてその武力を侮れず、だから善政をしき、農民に支持されるよう努めねばなりませんでした。小田原北条も四公六民の軽い税ですませたからこそ百年続いたわけです。

喧嘩両成敗

室町期、武士も農民も狂暴で喧嘩早く、訴訟も多発。そのような風土から「喧嘩両成敗」という手法が生まれました。争いが起きるということは双方に非があり、双方を平等に罰しますよということ。この喧嘩両成敗に室町幕府も江戸幕府も眉ひそめ、撲滅しようとしましたが、できませんでした。自分の争いは自分で解決したい、目には目を、歯には歯をは日本人にはフィットする原則だったのです。

喧嘩両成敗が消滅し、争いを自力救済せず、お上の判断に委ねようという考えが世に定着したのは江戸後期から。これを「近代」と呼んでもいいでしょう。

日本人は柔和?

日本人は互いの視線を気にし、暴力には訴えず、和を重んじるという固定観念。ひょっとしたら、このイメージは近世、農民が去勢されるにつれ、発生したものではないでしょうか? 中世、日本人はもっと大らかに人目を気にせず生きていたのであり、日本人のメンタリティの源泉はむしろそこにあるのでは?

二十世紀の大東亜戦争。そこで日本人が見せた同胞への苛烈と残酷。この戦史をひもとく時、日本人の暴力性を認識せざるをえません。その時、日本人のアーキタイプとして、おとなしい近世イメージでなく、荒々しく無法な中世イメージが浮かびあがります。