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なぜ源氏将軍は三代で滅びたのか?

頼朝から頼家

鎌倉幕府初代将軍、源頼朝は嫡男頼家の誕生をことのほか喜び、若宮大路を作りました。今も鎌倉に行けば、若宮大路が街の土台になっていることが分かるでしょう。将軍家、御家人の期待を一身に集めたのが、嫡男頼家。弟に実朝も控えていたわけですから、源氏将軍の継承は盤石に思われました。

 

頼朝が急死し、頼家が二代将軍となった時、もう十八才。元服もとうに済ませ、当時としては一人前の男子。若すぎるということはありません。実際、頼家が将軍職に就いた時、後見を誰が務めるかは話題になりませんでした。みなで頼家公をお支えしようという意見が、御家人のコンセンサス。

期待に応えられなかった頼家

けれど頼家、期待に応えることできず、将軍職に就いてから早々に政治執行権を取り上げられてしまいます。十三人の有力御家人による合議制が出てきたのも、ここから。今年の大河ドラマ、テーマですね。北条義時にしても、二代将軍がしっかりしていれば、それほど存在感を示せなかったはず。

 

ところが、頼家の外戚比企氏が北条氏によって滅ぼされ、頼家自身も政治能力なし。彼は結局、伊豆修善寺に幽閉されます。北条以外の御家人から目立った反対意見がなかったことからも、頼家はダメという意見は、みなの思うところだったよう。

 

結局、畠山氏、比企氏を滅ぼし、二代将軍も頼りないということで、北条氏が実権を握ります。頼家さえがんばっていれば、鎌倉期は源氏の時代。執権はあくまで補佐にすぎませんでした。

実朝は公武合体を目ざした

頼家の後、三代将軍として実朝が登場。実朝は頼家の実弟。この実朝、和歌音曲に通じ、後鳥羽天皇とも話が通じる風流人。彼は四代将軍に後鳥羽皇子を就けるよう考えていました。しかも従来、言われてきたように、政治が嫌いだったから、ではありません。そうではなく、四代将軍に皇子を就け、自分は大御所として自由な立場で権力をふるおうとしていたようです。

 

皇子将軍の場合、鎌倉幕府の権威は増し、これは執権だった北条義時、その姉・政子にとっても悪い話ではありません。実朝はしたたかな政治家としての側面も持ちあわせていました。

 

けれど実朝。彼は鶴岡八幡宮で、公暁に暗殺されてしまいます。公暁は頼家の息子。鶴岡八幡宮の別当になる予定でしたが、おじである実朝の暗殺におよびました。もちろんこれが許されるはずもなく、公暁は即座に処刑され、ここに源氏嫡流は三代で滅びました。ここから北条氏による執権政治が本格的に始まります。