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なぜ近衛文麿は失敗したのか?

近衛は進歩的思想に触れていた

近衛文麿は京都帝大で西田哲学や河上経済学の影響を受け、大正期に最先端の哲学、社会学に触れていました。彼が若い頃から理論家で、要人になった後も知識人を周囲に置きたがったのは、学んだ学問を政治に生かそうという自負あったからでしょう。

 

貴族院議員になってからも進歩的姿勢は変わらず、時代遅れになっていた貴族院改革に乗りだします。近衛さんが言うならということで、やがて衆議院優越が確立。五摂家嫡流でありながら貴族院改革を成し遂げた近衛の評判は上がります。当時、首相任命に最大の影響力あった西園寺公望も彼に着目。

 

1930年代には近衛首相待望論が出てきます。近衛にも、いつか自分が日本のかじ取りをしなければならないという思いはあったでしょう。

さまざまな人の話を聞きすぎた

近衛については昭和研究会に代表されるブレーンが有名。そこには国粋主義者もいれば、共産主義者もいました。ゾルゲ事件で有名になった尾崎秀美も昭和研究会メンバー。近衛は彼らの言葉にいちいち耳を傾け、そして最先端理論を吸収しようと努めていました。努力家の姿勢は学生時代と変わりありません。

 

今、振りかえれば、人の話を聞く努力が近衛にとって仇になったと言わざるを得ません。第一時近衛内閣で支那事変勃発、第二次近衛内閣で三国同盟締結、第三次近衛内閣で開戦決定と、近衛は地獄の対米戦争を我知らず準備していきました。

 

昭和天皇も非戦、近衛自身も非戦なら、首相権限を最大限に使い、戦争回避に動くべきでした。けれどその胆力がありませんでした。本来なら命がけで昭和天皇と木戸幸一、そして及川古志郎を巻きこみ、強引にでも和平に持ちこむべきだったのですが、近衛は傍観。昭和十六年十月、彼は内閣を投げだしました。

 

後に「自分は何かに動かされていたような気がする」と語った近衛。その「何か」とは陸軍統制派の圧迫でも共産主義者の陰謀でもなく、人の話を聞きすぎたことでの「優柔不断」だったのではないでしょうか?